エロ同人誌と映画から学ぶ「罪悪感」
今回は夏コミケで購入した天才LO作家猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」と、最近視聴した映画「グラントリノ」の共通テーマが「罪悪感」についてだったので、ここで考察する。
猫男爵先生の新刊では、艦隊時雨(実は艦これ知らない)が提督と結婚するが、時雨は亡くした艦隊の仲間のことがいつも心残りで、自分だけ幸せになってもいいものかと葛藤する心情が描かれている。
あとがきによると、この物語の元々の着想は「夕凪の街 桜の国」という漫画らしい。
その漫画はどうやら今までの「ヒロシマ」「原爆」物語で語られてきた主人公の根底にある「怒り」はなく、「生き残った罪悪感」しかないそうだ。
映画「グラントリノ」では、主人公のウォルトの過去に朝鮮戦争で誰に命令された訳でもないのに、降伏したも同然の兵士を何人も自分の手で殺した罪悪感との葛藤が描かれている。
この時期になるとテレビで流れるジャンボ機123号の特集や新刊、そして特に意識して視聴した訳ではないグラントリノと、何故か罪悪感について考えさせられるテーマが目に留まる。
ここで問題なのは、罪悪感は「生きる気力を奪う」、ということ。
「怒り」のマイナスエネルギーの矛先には基本的に相手がいるので生きる力になるが、「罪悪感」では償う相手もいない
ので、自分自身の気力を蝕んでいく。
僕は陰キャなので怒りの矛先を相手に向ける勇気がなから、怒り→自己嫌悪→罪悪感に走りやすい。
ただ、命を奪う・奪われる罪悪感と僕の中での罪悪感ではスケールが違いすぎるし味わったこともないので、今の僕にはまだよくわからない。
自分なりに「罪悪感」について深く考えようと試みたが、そもそも僕は嫌な出来事はすぐに忘れるタイプなので、正直引き出しから何も見つからなかった。強いて言うならば、僕が以前バイトをバックレた時だろうか。(俺がバイトをバックレて、制服を送り返した時の話)
ただ、罪悪感は常に心の根底に居座り続け、それが強ければ強い程忘れたくとも忘れられないという部分は、少しだけ理解できたような気がした。ふとした瞬間にフラッシュバックするというか。
しかし僕がうつ傾向というか、月に一度バミューダトライアングルに心が飲み込まれてしまうのは確かで、しかも特にこれといった原因が自分の中で見いだせないので、マジでうつ病なのでは?と考える今日この頃。今にも溶けてしまそうな猛暑の中、皆さんはいかがお過ごしですか?
結局何を伝えたかったかというと、猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」が素晴らしいってことと、俳優人生最後の出演作「グラントリノ」のイーストウッドの演技が神がかっていたということです。僕からの暑中見舞いでした。