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永い言い訳

 前々回のブログで僕は「人生は妥協の連続だ」と書き綴ったが、それは単なる自分への言い訳でしかないことが今日判明した。裏を返せば、今の今までそう信じ続けていたことになる。

 何故そう考え方が変化したか。それは、「頑張っている人」を応援する人が大勢いることにヒントを得たからだ。

もちろん誰しも自分なりに頑張っているが、ここでは世間で「頑張っている人」として一目置かれている人のことを指す。

 僕もその内の一人だが、するべきこと・やりたいことをいくつも頭に描いているのに、行動に移すことができない。最初の一歩が踏み出せない。

 僕の場合だと、小学三年生の夏休みがいい例だ。
近所に小さな河川があるのだが、凹字型にブロックが積まれており、その間を流れる川を尻目に向こう岸まで跳ぶという遊びをしていた。ブロックと川の高低差は、ざっと7,80cmといったところか。
向こう岸までは1メートルと数センチ程の距離があり、僕はというと一度も跳んだことがない。川に落ちることすらなかった。

ただ跳べないだけなら痛くも痒くもないが、鬼ごっこになると川を飛び越えられないと話にならない。そんな僕は、橋の方まで走り続けていた。
 
 何故僕は川を跳び越えることができなかったのか。理由は単純明快で、怖いからだ。
怖気づく僕に友人は幅跳びの練習に付き合ってくれたが、川を前にすると足がすくんで動かなかった。

 「石橋を叩いて渡る」ということわざがあるが、あれは教訓ではなくただの僕への皮肉だ。川を飛び越えた友人と、跳びすらしなかった僕の違いは、目線がどこに向いていたかだと僕は考える。
彼らは常に向こう岸の土の壁を見据えていて、僕は足元の流れる川に潜む無数の瓦礫や石に夢中だった。

 そんな僕が捉えるのは、今でも足元ばかり。よく言えば慎重、悪く言えば臆病。
もちろん悪いことばかりではないが、自分がここまで言い訳に精通している人間だとは思ってもみなかった。

 ヒトは、自分を第三者、TPS視点で自分自身を客観的に眺めることができる唯一の動物らしい。
メタ認知」と呼ばれるそれは、古代から伝わる本能で、どうやら熊やら虎から身を護る為に発達していったらしい。

それが故に、人間は誰しも言いようのない不安を感じてしまう。他の動物ならば、本能のままに獲物を捕らえるので、自分を客観視することはまずない。

 そんな「メタ認知」の恐怖が行く手を遮る中、一歩踏み出した者が世間で言う「頑張っている人」なのかもしれない。それなら、応援されるのも納得ができる。自分が立ち入ることのできない道を、彼らは恐怖をもろともせず歩いてゆく。

 「人生は妥協の連続」
半分は間違っていて、もう半分は正しい。ただ自分でブレーキを踏んでいるだけなので、アクセルを踏めば誰でも前に進むことが出来る。最初から決めつけてしまっているのは、いつも自分自身だ。

 いつの日か、胸を張って「間違っている」と断言できたのならば、僕は生きていて良かったと実感できるだろう。
そんな未来の僕に永い言い訳を託しながら、今日も睡眠を貪るとしよう。僕は一体・・・