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打ち上げに参加したかったけど、参加しなかった男。

 先日、知人らとの打ち上げに参加することになった。
結果から言うと、行かなかった。
かといって、参加したくなかった訳ではない。正直、7割位の気持ちで行きたかった。
れでも僕は、反対方向の電車に乗っていた。


 打ち上げの前に、みんなで集まることになっていた。場所は、いつもの作業場所。
仕事があってないような僕は、憂鬱だった。ただ本を読んだり、書類整理をしているふりをしたり、何度も外に出たりするのを5時間も繰り返すのは、流石の僕でもキツイ。


 丁度その日はいい言い訳が思いついたので、作業終了時間の一時間前に顔を出し、その流れで打ち上げに参加し、タダ飯を食らおうとした。
我ながら、完璧な考えだと思った。


 しかし、人生そんなに一筋縄ではいかない。
終了時間の一時間前に顔を出すと、皆もう居なかった。
既に、打ち上げ会場へ移動していたのだ。

 ただ、ここまでは何も問題はない。
何故なら、その足で直接会場に向かえば、タダ飯にありつくことが出来たからだ。


それなのに僕は、そのまま帰宅するという意味不明な行動を取る。

 最寄り駅からチャリを漕ぎながら、僕は考えた。何故、また回避してしまったのか。
メンバーはむしろ良い位。こんなクソ陰キャの俺に対しても、彼らは何ら変わりなく優しく接してくれる。

しかしそれこそが、回避の原因だった。


 僕は自分が傷つくことでしか、自分の存在を確認することができないことに、気が付いてしまった。
優しくされた時に、どう反応すればいいのか未だによくわからない。
とりあえず「ありがとう」と感謝の気持ちを述べるのだが、それからどう話を広げればいいのかがわからない。

自分が相手の好意を踏みにじってしまっていないか、邪魔になっていないかと、自分を意味もなく傷つけてしまう。


 打ち上げだって、参加したかった。けれど、参加しないことで自分を痛めつけて、自らのアイデンティティーを保っていたのかもしれない。


 前のバイト先の飲食店では、本当に全てが最悪だった。
特に人間関係は最悪で、意識高い系のおばちゃんの暴走は、誰にも止めることが出来なかった。
その悪評はエリア内全てに広まっていたが、彼女の代わりに夜勤シフトを埋める者は、誰も居なかった。

が、仕事さえできれば上手くかわせることを知り、なんだかんだ約二年続いた。


 今思えば、あれも自傷行為の一種だったのかな、と感じる。
正直給料もそこまで良くなかったし、非効率なのはわかっていた。
ただ、たまたま所属していた店舗が売上トップだったからか、世間話をする余裕はあまり無かった。
おばちゃんさえ回避すれば、人間関係はとてつもなく楽だった。それだけが、僕を繋ぎとめていた蜘蛛の糸だった。
人間関係が薄いのは、本当に楽だったから。


 優しさを、素直に受け取る方法がよくわからない。
壊れてしまった僕の心では、感じ取ることが出来なくなっているのかもしれない。
それでも、プレゼント等の「」なら、素直に喜ぶことができる。ちょろい。


 僕の大好きな黒澤明の映画「乱」のワンシーンで、一族が滅びるのを見届けた側近が
泣くな、これが人の世だ。幸せよりも悲しみを、安らぎよりも苦しみを追い求めているのだ。
と嘆くシーンがある。
僕にしか当てはまらないと感じていたが、不倫やゴシップ等、しょーもない負のオーラが世間に求められている以上、人類共通なのかもしれない。

 この乾いた気持ちは、一生満たされることはないのかもしれない。ないものねだりって奴なのかな。


 弟がピアノ教室辞めたがってるんだけど、代わりに俺が通ってみようかな・・・