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目指せ放課後ティータイム!

 中途半端な時間に昼寝をしてしまった僕は、未だ寝つけずにいた。モニターのか弱い光に囲まれながら、天井に張り付けたダノター城を眺めるのは実に気持ちが良い。

 ものおもいにふけていると、ふつふつと浮上してくる深層心理。そうだ、ブログを書こう・・・

 

  先日、ドロップアウトした母校の文化祭に来ないか、と旧友に誘われた。ここ数年当時の友人と顔を合わせていない僕は、たまには悪くない、何かあっても配信かブログのネタにすればいいや、と快く了承した。 

 当日の8時までハリウッドザコシショウの動画を鑑賞していた僕が目覚めると時刻は14時過ぎ。

正直かったるい気持ちでいっぱいだけれど、OKを出してしまったので後ろめたさがある。天使と悪魔が葛藤する中らちが明かない僕は、弟に助け船を依頼した。

 

「いや、行けよ」

「いや、だるくね?」

「誘われて行くって言ったんなら行けよ」

「いや、在学中に文化祭抜け出してた奴が、卒業して行くってものよくよく考えたらおかしい話だろ」

「確かにそれはそうだけど、行けよ」 

 弟に背中を押されたものの、イマイチ気乗りしない僕は、母に相談してみることにした。

 

「あんたが行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなければいいじゃない」

「たまには会うのも良いと思うんだけど、どうしても気乗りしなくてね・・・」

「まぁ行きたくないならいいんじゃないの。同窓会だってなんだって皆自信がある奴が行くんだから。アンタが大きい魚になってから呼ばれたら行けば?」

 やはり母は母だ。そう、今の僕には自信のじの字すら持ち合わせていない・・・全部見抜かれていたようだ。

「大きい魚・・・」

ドロップアウト時の担任に、手続きの際

「大物になれよ」

 と言われたことを思い出した。顔を見ていなかったので、茶化されたのか大真面目だったのかは未だにわからない。

 そんなことを確認しに行くのも悪くないが、どうしても体が拒否する。学校アレルギーの僕は、ズル休みした弟の部屋への足を走らせていた。

 

 相変わらず太鼓の達人が上手い彼。いつも横でむずかしいをプレイするのも恥ずかしいので、最近僕も練習を始めた。弟曰く「まずはむずかしい全部やれ」とのことなので、息抜き程度にプレイしている。なんの息抜きかは自分でもわからないが。

 今朝彼が母と学校に行く行かないで一悶着あったことを知っている僕は、どうにか優しくしてやりたいと考えていた。母が

「ろくでもないのは兄ちゃんだけでこりごりよ!」

と叫んでいるのを耳にしてしまい、モヤモヤが晴れずにいたからだ。

ハイスコアガール」の大野姉妹のような関係の僕と弟。

 

「お前さ、太鼓うまいんだからドラムかベースできんじゃね?リズム感あるでしょ」

秋山澪?」

放課後ティータイムやるか、俺ギターだから平沢唯な。お前ベースで秋山澪な」

 

 放課後ティータイム結成の日は近い・・・!オアシスでも可。半分オブジェと化しつつあったギターを抱きながら眠りにつく僕は、はたしてプリキュアの時間に間に合うのか・・・?

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ステイサムが素手でサメと戦うのが面白すぎた「MEG ザ・モンスター」

MEG ザ・モンスター

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 正直僕は予告編を観た限り、「ジオストーム」のような映画だと思っていましたが、概ねその通りでした。しかし、違うのはネットでの評価。

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  ジオストームが3.7に対し、MEGは3.1。MEGの低評価レビューをざっと確認した限り、「中国が舞台、中国推しが気に食わない」といった内容がちらほら。

 確かにステイサムが元カノを差し置いて、現地のクルーと恋に落ちるのには多少違和感を感じましたが、よくあるパニック映画での恋愛と同じくスパイス程度でしかないので、個人的にはあまり気になりませんでした。

 

 あらすじとしては、5年前にメガロドンと遭遇し、二人のクルーを見殺しにして脱出した過去を持つステイサムが、再び現れたメガロドンを退治する話。

 冒頭では、ステイサムはレスキュー隊員で、復活したメガロドンに襲われた潜水艦を救いに向かいますが、閉じ込められたクルーの中になんと日本人が!

中国資本なので、パニック映画あるあるの「アジア人・黒人は真っ先に死ぬ」は当てはまらないもしれぬと期待しましたが、やはり英雄になってしまいましたね。世界は残酷だ・・・

 

 正直、サメ映画としては今作はとても真面目です。復活した「メガロドン」は、空を舞いませんし、機械と合体もしません。ただただ巨大な生ける化石として、クルーやビーチの観光客を襲います。

 真面目なサメ映画なんて退屈でしかないだろ!と考えるサメ映画ファンは大勢いると思いますが、この映画テンポが非常に良いです。近年のパニック映画と比べても、遥かにテンポが良い。 

 過去のトラウマ→繰り返される惨劇→自己中な投資家のフリとオチ→無能な現地人クルー→それを嫌な顔一つせずに助ける漢ステイサム→一般人まで巻き込む大事件に→ステイサムのサメ狩りがスタート

と、本当にテンポが良いです。

 

 もちろん、笑い所もあります。ビートたけしアウトレイジのような本人はマジメだけど、傍から観ると笑い所でしかないみたいな。

 僕のお気に入りシーンは、無能な現地の女クルーを救出する為に、ステイサムが酸素ボンベ一つで海に飛び込むシーンですね。流石に無茶すぎるだろ、と。劇場でも所々笑いが起きていましたね。特に左列に座っていた大学生集団。

 

 そして本作は「フリ」と「オチ」が丁寧な点がポイント高いですね。メガロドンを倒し、死骸に顔を突っ込み記念撮影を試みるクルー。

「いや絶対こいつ生きてるパターンですやん」

と思いきや・・・そうではなかった。

 来るぞ来るぞと身構えている僕をじらし、斜め上からオチをつけるメガロドン。なんともないシーンでも冷や冷やさせられましたが、これこそがパニック映画の醍醐味だよな~なんて思いました。

 

 それでもやっぱり、海洋学者の娘でイキるくせに無能な現地女クルーは少しうざったかったですね。ステイサムもよくもまぁ何度も助けるよ、うん。

そこから恋仲になる展開は少々強引すぎる気もしましたが、作品全体としてのテンポが良いのでギリギリ許容範囲ですね。

 

 そんな訳で、心内評価3.8/5です。

テンポが非常に良い、ステイサムの馬鹿マジメなギャグ要素、フリとオチが丁寧なのがアド。強引なヒロイン推しはディスアド。

 ヒットしているので、大きな期待を抱き劇場へ足を運ぶ人がネットでちらほら見られましたが、あまり期待しない方がオトクだと思います。本当に「ジオストーム」を観にいく位の気持ちで鑑賞しましょう。

 

成長とは

 今日も、良い意味で言動や行動が同年代と比べて少し大人びている、と褒められた。正直生きていて褒めれられることはそうそうない分悪い気は全くしないのだが、違和感を抱くのは毎度のことである。

 僕は本当に子どもだとつくづく思う。まるで自分の人生を他人事のように舵を切っていて、責任を負うのが大嫌い。都合が悪くなったり決断のリミットが迫れば現実逃避を繰り返す。子どもどころか、まるで赤ちゃんだ。

 他人にはさも自分の事柄かのようにアドバイスをしたり寄り添って思考する、出来る癖に、自分のこととなるとテンで駄目だ。
親には数えきれない程無責任だと言われてきたが、自分でも本当に無責任な人間だと思う。

 そんなことを考えていると、夏の終わりも相まってナーバスになってしまった。そんな僕が現実逃避する場所は、決まって映画館。
 つい昨日宿題に全く手をつけていない弟と遊園地で遊んだばかりなのに、どうしても夏を終わらせたくない僕。最後の抵抗だ。

 鑑賞した作品は、「ブリグズビー・ベア
25歳の主人公が、実の親ではなく誘拐犯に25年間もの間育てられていた、と知る。
 肉親の元に戻るものの、幽閉されていた彼の唯一の情報源「ブリグズビー・ベア」という教育番組のことをどうしても忘れることが出来ず、うまく家族と馴染めずにいる彼だった。
そんな中、妹とパーティーに参加したことをきっかけに、友人をつくり、やりたいことを見つけ成長していく・・・といったストーリー。
 
 この映画の内容を要約すると、25年間引きこもってたけど、外の世界に出て友達作ればなんとかなるぜ!ってこと。そんな内容とメッセージは陰キャオタクの僕にはあまりにも眩しく、日を浴びたドラキュラのように僕は灰と化した。

 夜の生暖かい渋谷の街を歩いていると、昔塾の先生が退職時にくれたメッセージカードのことをふと思い出した。
 「人は、人と関わっていくことでしか成長できないので、これからもたくさんの人に囲まれて酸いも甘いも色々な経験をして素敵な男性になってね。」
 この一文は定期的にフラッシュバックするのだが、映画の内容とマッチして考えざるを得なくなった。
 
 毎度のことなので、手順は大体決まっている。まずは、
「あの時と比べて成長できているだろうか?」
と考える。答えは半分YES。

 バイトやらで長いものに巻かれるようになったのは、良くも悪くも成長した証なのでは、と考えるからYES+1
 でもただのコミュ障な部分があるのでYes-0.5
 「たくさんの人に囲まれて酸いも甘いも色々な経験をして」後半は色んな意味でYes+1
 「たくさんの人に囲まれて」は満たしていないのでYes-1

 よって、答えは半分YES。

 それにしても本当に的を射た人生の先輩からのメッセージだな、とつくづく思う。
「人は、人と関わっていくことでしか成長できない
これは本当にその通りで、僕自身の課題だな、と思う。

 今日鑑賞した映画の主人公も、友人や周囲の環境を通して成長していき、自分の道を切り開いていた。一人なら、絶対に到達することができない道を。

 僕にも、そんな人生のパートナーが居ればな、と帰りの電車内で考えていた。別に彼女とかじゃなくて、互いに心を許し合える友人・・・いや、僕にも一人だけ居た。それは弟。

 彼女や友人をも凌ぐ究極の関係、弟。彼も僕と同じくメンヘラ傾向があるらしいが、僕がいると気持ちが和らぐそうだ。こんなダメ兄貴でも、心は通じ合っているようだ。

 弟となら、なんだって出来る気がするな・・・そんな暖かな妄想を抱きながら、今日も眠りにつくのだ。

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泣き虫な僕

 僕は昔から泣き虫だったなぁ
今日バイト中にふと頭をよぎった。退屈な作業の最中には、そんなどうでも良いことでも暇つぶしになるものだ。

 小学生や中学生の時、先生に怒られると僕は泣いてしまうタイプだった。友人と教室で立たされる中、どれだけ涙腺を踏ん張ってもお漏らししてしまう僕。友人よりも怒られるのには慣れている筈なのに、彼らは指遊びに没頭していた。

 福本作品で一番好きな作品「最強伝説黒沢」の新版一巻では、幼児退行してしまった主人公の黒沢に病院の看護長が
「思考回路は幼児そのものね」と言うシーンがある。
自分の都合が悪くなると、気絶して現実逃避する黒沢。僕にとても似ていると思った。

 赤ん坊は、親にかまってもらう為に泣きじゃくるから、僕もかまって欲しくてたまらないから未だに泣き虫なのか?と考えたが、これはおおむね正解だった。僕の幼少期にヒントがあるようだ。

 僕が今覚えている限りの幼少期の記憶の多くは、両親が喧嘩している描写だ。いつもリビングのガラスのテーブルを挟んで言い合いをしていて、それを止めようと泣きじゃくる僕。僕にかまってくれれば、喧嘩は止むと考えての行動だったが、それで喧嘩が止んだことは一度たりともなかった。
 
 小学三年生の頃だろうか。その日は初めて殴り合いの喧嘩を目にした。少なくとも、僕が記憶している範疇では。
父が会社のTOEICテスト対策で、わざわざ僕のDSで英語ソフトをやりたいそう。当然父とろくに会話ができない、したことがない僕は頷くことしかできなかった。
そのDSは母方の祖父が購入してくれたものなので、母はそれに激怒。父はいつも邪魔をするし、子供のような嫌がらせを繰り返すことは、家では常識だ。

「あいつは良いって言ったけど」
「だからって子供から取り上げるのはおかしいでしょう?あなたは大人なんだから」
「邪魔なんだから出て行けよ」
「返して!DS返しなさいよ!」

僕は階段の下で、
「もう良いから!貸すから!もう止めて!もう良いから・・・」
と叫ぶが、どうやら聞こえていないようだった。その後母は泣きながら警察行くだの出て行くだの言っていて、父はああどうぞ勝手にしろ、出ていくなら出てけ、とお互い一歩も引かなかった。この時も、僕はいくら泣いてもかまってもらえなかった。
今思えば、僕の流した涙はナナリーと同じモノだったのではないか?違う?

 一度、父と母に
「アンタらなんか大っ嫌いだ」
と嘆いたことがあった。すると彼らは
「こんなに優しい親いないよ?」
と口を揃え、父と母が争っていたはずなのに、僕が標的になってしまった。 

結局、母も父に傷つけられることで自分を保っていたのではないか?そうではないにしても、そう考えることもできてしまうからDVのスパイラルはヤバイと感じる。そら、なかなか抜け出せない訳ですわ。僕が将来結婚をするならば、顔や金ではなく、人格の相性で決めようと誓ったあの日が懐かしい。

 僕はただ、喧嘩を止めて欲しかっただけだったんだ。そんな泣き虫のルーツを知った僕は、バイト中にも関わらずまた泣いてしまいそうになったが、流石にもう我慢できる。普段は全く意識しないけれど、記憶の底にしっかりと沈んでいることが悲しい。

 僕を注意する上司をその場で店長が叱り、気まずくなって退散した僕を上司が苦笑いを浮かべながら叱り、ああ、もうみんな死ねばいいのにと思った今日でした。もうこんなバイト辞めてしまいたい。

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掃き溜め

 NNNドキュメントで「吉藤オリィ」氏が特集されていた。彼は元ひきこもりだったが、高校時のロボット大会での優勝をきっかけに学校に通い始め、現在は孤独を解消するための研究をしているそうな。リンク

 正直嫉妬した。彼はVTRを観る限りとてつもない人格者で、輝かしい功績もあり、社会にとって大いに貢献している。
「元」ひきこもりや不登校でメディアに取り上げられている人物は大抵何か第三者から認められているものがあって、しかもコンクール等の正式な賞を受賞していたりもする。

 それに比べて僕には特に第三者から認められているものや功績は特になにもない。
小説や脚本の進行は未だ0%で、ただ映画鑑賞とハースストーンで現実逃避を繰り返すだけの日々。頭ではアイデアがいくつも描けていても、体が動いてこない。
別に努力をしたくない訳ではなく、努力したくても一向に体が追いついてこないのだ。

いわゆる「成功者」は、行動を起こして、それから生じるトライ&エラーによって一歩ずつ前進して行く。
僕はその一歩すら踏み出せず、やりたくもないアルバイトに精を出している。
今回は、そんな自己否定に走った僕の掃き溜めのブログ。

 「学校に行かないから、勉強もできないし、運動もできないし、友だちもいなくなる。すると「自分はダメなやつだ」と自己否定が始まってしまう。それがつらかったというのが強くあって。」
この一文から、オリィ氏がガチの元ひきこもりであったことがわかる。今の僕自身が、そうだから。
「俺は現在進行形だから・・・」という言い訳で逃げられなくもないが、脱出方法はみつからない。

 僕は人生を生きているだけで100点スタートの加点方式だと考えているが、それでも自分より高い点数の人はいるわけで。スタート地点がマイナスでも、自分より点数が高く這い上がっている人も大勢いるわけで。そして自己否定に入ってこの繰り返し・・・たまには嫉妬もするよね。行動力とかに。
僕はのけ者かもしれないが、他人となんら変わらず人から認められたいとも思うし、嫉妬だってすると気がつかされたNNNドキュメントだった。

 個性を尊重することが最近の流行りだと感じるが、そもそも個性とはなにか?
SNSはただのいいね稼ぎのゲームに過ぎず、個が認められた気になることができるだけで、そもそも個性なんてものは誰にもないのでは?と。
少しばかり考え方や感じ方が違っているだけで、本質的にはなんら変わらない。その筈なのに、僕には同じように一歩を踏み出すことが出来ない。これも、皆同じだったりするのかな?

 そんな自己否定に陥りがちな僕の原因を発見した。それは、自己否定に陥る時は決まって実家に居ることだ。
本当に帰宅した瞬間に気持ちが落ち込むこの実家は、どうやら井戸があったかもしれない?土地らしい。母曰く数人の人に見てもらったが、マジで離れた方がいいそう。オカルトはあまり信じない方だが、気分が落ち込むことは確かだ。
・・・割りの良いバイト探すか、就職でもしてまず実家を出ることが、今の僕がすべき一番初めのことなのかな、と考えた今日この頃。路上で寝た方が寝心地が良いレベルに埃が積もっているので、片道切符で海外に行くのも楽しそう。のたれ死んだら、その時はその時で。

 僕は電子の海にただよう海月。ただ波にさらわれ、漂うだけの毎日・・・跡形もなく、海に溺れて消えてしまいたい。
数か月前に興味を持った海月の飼育を、貯金をまた10万貯めたら始めようと思い立った今日でした。

エロ同人誌と映画から学ぶ「罪悪感」

 今回は夏コミケで購入した天才LO作家猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」と、最近視聴した映画「グラントリノ」の共通テーマが「罪悪感」についてだったので、ここで考察する。

 猫男爵先生の新刊では、艦隊時雨(実は艦これ知らない)が提督と結婚するが、時雨は亡くした艦隊の仲間のことがいつも心残りで、自分だけ幸せになってもいいものかと葛藤する心情が描かれている。
あとがきによると、この物語の元々の着想は「夕凪の街 桜の国」という漫画らしい。

その漫画はどうやら今までの「ヒロシマ」「原爆」物語で語られてきた主人公の根底にある「怒り」はなく、「生き残った罪悪感」しかないそうだ。

 映画「グラントリノ」では、主人公のウォルトの過去に朝鮮戦争で誰に命令された訳でもないのに、降伏したも同然の兵士を何人も自分の手で殺した罪悪感との葛藤が描かれている。

 この時期になるとテレビで流れるジャンボ機123号の特集や新刊、そして特に意識して視聴した訳ではないグラントリノと、何故か罪悪感について考えさせられるテーマが目に留まる。
ここで問題なのは、罪悪感は「生きる気力を奪う」、ということ。
「怒り」のマイナスエネルギーの矛先には基本的に相手がいるので生きる力になるが、「罪悪感」では償う相手もいない
ので、自分自身の気力を蝕んでいく。

 僕は陰キャなので怒りの矛先を相手に向ける勇気がなから、怒り→自己嫌悪→罪悪感に走りやすい。
ただ、命を奪う・奪われる罪悪感と僕の中での罪悪感ではスケールが違いすぎるし味わったこともないので、今の僕にはまだよくわからない。

 自分なりに「罪悪感」について深く考えようと試みたが、そもそも僕は嫌な出来事はすぐに忘れるタイプなので、正直引き出しから何も見つからなかった。強いて言うならば、僕が以前バイトをバックレた時だろうか。(俺がバイトをバックレて、制服を送り返した時の話)
ただ、罪悪感は常に心の根底に居座り続け、それが強ければ強い程忘れたくとも忘れられないという部分は、少しだけ理解できたような気がした。ふとした瞬間にフラッシュバックするというか。

 しかし僕がうつ傾向というか、月に一度バミューダトライアングルに心が飲み込まれてしまうのは確かで、しかも特にこれといった原因が自分の中で見いだせないので、マジでうつ病なのでは?と考える今日この頃。今にも溶けてしまそうな猛暑の中、皆さんはいかがお過ごしですか?

 結局何を伝えたかったかというと、猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」が素晴らしいってことと、俳優人生最後の出演作「グラントリノ」のイーストウッドの演技が神がかっていたということです。僕からの暑中見舞いでした。

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永い言い訳

 前々回のブログで僕は「人生は妥協の連続だ」と書き綴ったが、それは単なる自分への言い訳でしかないことが今日判明した。裏を返せば、今の今までそう信じ続けていたことになる。

 何故そう考え方が変化したか。それは、「頑張っている人」を応援する人が大勢いることにヒントを得たからだ。

もちろん誰しも自分なりに頑張っているが、ここでは世間で「頑張っている人」として一目置かれている人のことを指す。

 僕もその内の一人だが、するべきこと・やりたいことをいくつも頭に描いているのに、行動に移すことができない。最初の一歩が踏み出せない。

 僕の場合だと、小学三年生の夏休みがいい例だ。
近所に小さな河川があるのだが、凹字型にブロックが積まれており、その間を流れる川を尻目に向こう岸まで跳ぶという遊びをしていた。ブロックと川の高低差は、ざっと7,80cmといったところか。
向こう岸までは1メートルと数センチ程の距離があり、僕はというと一度も跳んだことがない。川に落ちることすらなかった。

ただ跳べないだけなら痛くも痒くもないが、鬼ごっこになると川を飛び越えられないと話にならない。そんな僕は、橋の方まで走り続けていた。
 
 何故僕は川を跳び越えることができなかったのか。理由は単純明快で、怖いからだ。
怖気づく僕に友人は幅跳びの練習に付き合ってくれたが、川を前にすると足がすくんで動かなかった。

 「石橋を叩いて渡る」ということわざがあるが、あれは教訓ではなくただの僕への皮肉だ。川を飛び越えた友人と、跳びすらしなかった僕の違いは、目線がどこに向いていたかだと僕は考える。
彼らは常に向こう岸の土の壁を見据えていて、僕は足元の流れる川に潜む無数の瓦礫や石に夢中だった。

 そんな僕が捉えるのは、今でも足元ばかり。よく言えば慎重、悪く言えば臆病。
もちろん悪いことばかりではないが、自分がここまで言い訳に精通している人間だとは思ってもみなかった。

 ヒトは、自分を第三者、TPS視点で自分自身を客観的に眺めることができる唯一の動物らしい。
メタ認知」と呼ばれるそれは、古代から伝わる本能で、どうやら熊やら虎から身を護る為に発達していったらしい。

それが故に、人間は誰しも言いようのない不安を感じてしまう。他の動物ならば、本能のままに獲物を捕らえるので、自分を客観視することはまずない。

 そんな「メタ認知」の恐怖が行く手を遮る中、一歩踏み出した者が世間で言う「頑張っている人」なのかもしれない。それなら、応援されるのも納得ができる。自分が立ち入ることのできない道を、彼らは恐怖をもろともせず歩いてゆく。

 「人生は妥協の連続」
半分は間違っていて、もう半分は正しい。ただ自分でブレーキを踏んでいるだけなので、アクセルを踏めば誰でも前に進むことが出来る。最初から決めつけてしまっているのは、いつも自分自身だ。

 いつの日か、胸を張って「間違っている」と断言できたのならば、僕は生きていて良かったと実感できるだろう。
そんな未来の僕に永い言い訳を託しながら、今日も睡眠を貪るとしよう。僕は一体・・・