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掃き溜め

 NNNドキュメントで「吉藤オリィ」氏が特集されていた。彼は元ひきこもりだったが、高校時のロボット大会での優勝をきっかけに学校に通い始め、現在は孤独を解消するための研究をしているそうな。リンク

 正直嫉妬した。彼はVTRを観る限りとてつもない人格者で、輝かしい功績もあり、社会にとって大いに貢献している。
「元」ひきこもりや不登校でメディアに取り上げられている人物は大抵何か第三者から認められているものがあって、しかもコンクール等の正式な賞を受賞していたりもする。

 それに比べて僕には特に第三者から認められているものや功績は特になにもない。
小説や脚本の進行は未だ0%で、ただ映画鑑賞とハースストーンで現実逃避を繰り返すだけの日々。頭ではアイデアがいくつも描けていても、体が動いてこない。
別に努力をしたくない訳ではなく、努力したくても一向に体が追いついてこないのだ。

いわゆる「成功者」は、行動を起こして、それから生じるトライ&エラーによって一歩ずつ前進して行く。
僕はその一歩すら踏み出せず、やりたくもないアルバイトに精を出している。
今回は、そんな自己否定に走った僕の掃き溜めのブログ。

 「学校に行かないから、勉強もできないし、運動もできないし、友だちもいなくなる。すると「自分はダメなやつだ」と自己否定が始まってしまう。それがつらかったというのが強くあって。」
この一文から、オリィ氏がガチの元ひきこもりであったことがわかる。今の僕自身が、そうだから。
「俺は現在進行形だから・・・」という言い訳で逃げられなくもないが、脱出方法はみつからない。

 僕は人生を生きているだけで100点スタートの加点方式だと考えているが、それでも自分より高い点数の人はいるわけで。スタート地点がマイナスでも、自分より点数が高く這い上がっている人も大勢いるわけで。そして自己否定に入ってこの繰り返し・・・たまには嫉妬もするよね。行動力とかに。
僕はのけ者かもしれないが、他人となんら変わらず人から認められたいとも思うし、嫉妬だってすると気がつかされたNNNドキュメントだった。

 個性を尊重することが最近の流行りだと感じるが、そもそも個性とはなにか?
SNSはただのいいね稼ぎのゲームに過ぎず、個が認められた気になることができるだけで、そもそも個性なんてものは誰にもないのでは?と。
少しばかり考え方や感じ方が違っているだけで、本質的にはなんら変わらない。その筈なのに、僕には同じように一歩を踏み出すことが出来ない。これも、皆同じだったりするのかな?

 そんな自己否定に陥りがちな僕の原因を発見した。それは、自己否定に陥る時は決まって実家に居ることだ。
本当に帰宅した瞬間に気持ちが落ち込むこの実家は、どうやら井戸があったかもしれない?土地らしい。母曰く数人の人に見てもらったが、マジで離れた方がいいそう。オカルトはあまり信じない方だが、気分が落ち込むことは確かだ。
・・・割りの良いバイト探すか、就職でもしてまず実家を出ることが、今の僕がすべき一番初めのことなのかな、と考えた今日この頃。路上で寝た方が寝心地が良いレベルに埃が積もっているので、片道切符で海外に行くのも楽しそう。のたれ死んだら、その時はその時で。

 僕は電子の海にただよう海月。ただ波にさらわれ、漂うだけの毎日・・・跡形もなく、海に溺れて消えてしまいたい。
数か月前に興味を持った海月の飼育を、貯金をまた10万貯めたら始めようと思い立った今日でした。

エロ同人誌と映画から学ぶ「罪悪感」

 今回は夏コミケで購入した天才LO作家猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」と、最近視聴した映画「グラントリノ」の共通テーマが「罪悪感」についてだったので、ここで考察する。

 猫男爵先生の新刊では、艦隊時雨(実は艦これ知らない)が提督と結婚するが、時雨は亡くした艦隊の仲間のことがいつも心残りで、自分だけ幸せになってもいいものかと葛藤する心情が描かれている。
あとがきによると、この物語の元々の着想は「夕凪の街 桜の国」という漫画らしい。

その漫画はどうやら今までの「ヒロシマ」「原爆」物語で語られてきた主人公の根底にある「怒り」はなく、「生き残った罪悪感」しかないそうだ。

 映画「グラントリノ」では、主人公のウォルトの過去に朝鮮戦争で誰に命令された訳でもないのに、降伏したも同然の兵士を何人も自分の手で殺した罪悪感との葛藤が描かれている。

 この時期になるとテレビで流れるジャンボ機123号の特集や新刊、そして特に意識して視聴した訳ではないグラントリノと、何故か罪悪感について考えさせられるテーマが目に留まる。
ここで問題なのは、罪悪感は「生きる気力を奪う」、ということ。
「怒り」のマイナスエネルギーの矛先には基本的に相手がいるので生きる力になるが、「罪悪感」では償う相手もいない
ので、自分自身の気力を蝕んでいく。

 僕は陰キャなので怒りの矛先を相手に向ける勇気がなから、怒り→自己嫌悪→罪悪感に走りやすい。
ただ、命を奪う・奪われる罪悪感と僕の中での罪悪感ではスケールが違いすぎるし味わったこともないので、今の僕にはまだよくわからない。

 自分なりに「罪悪感」について深く考えようと試みたが、そもそも僕は嫌な出来事はすぐに忘れるタイプなので、正直引き出しから何も見つからなかった。強いて言うならば、僕が以前バイトをバックレた時だろうか。(俺がバイトをバックレて、制服を送り返した時の話)
ただ、罪悪感は常に心の根底に居座り続け、それが強ければ強い程忘れたくとも忘れられないという部分は、少しだけ理解できたような気がした。ふとした瞬間にフラッシュバックするというか。

 しかし僕がうつ傾向というか、月に一度バミューダトライアングルに心が飲み込まれてしまうのは確かで、しかも特にこれといった原因が自分の中で見いだせないので、マジでうつ病なのでは?と考える今日この頃。今にも溶けてしまそうな猛暑の中、皆さんはいかがお過ごしですか?

 結局何を伝えたかったかというと、猫男爵先生の新刊「雨音を数えるように」が素晴らしいってことと、俳優人生最後の出演作「グラントリノ」のイーストウッドの演技が神がかっていたということです。僕からの暑中見舞いでした。

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永い言い訳

 前々回のブログで僕は「人生は妥協の連続だ」と書き綴ったが、それは単なる自分への言い訳でしかないことが今日判明した。裏を返せば、今の今までそう信じ続けていたことになる。

 何故そう考え方が変化したか。それは、「頑張っている人」を応援する人が大勢いることにヒントを得たからだ。

もちろん誰しも自分なりに頑張っているが、ここでは世間で「頑張っている人」として一目置かれている人のことを指す。

 僕もその内の一人だが、するべきこと・やりたいことをいくつも頭に描いているのに、行動に移すことができない。最初の一歩が踏み出せない。

 僕の場合だと、小学三年生の夏休みがいい例だ。
近所に小さな河川があるのだが、凹字型にブロックが積まれており、その間を流れる川を尻目に向こう岸まで跳ぶという遊びをしていた。ブロックと川の高低差は、ざっと7,80cmといったところか。
向こう岸までは1メートルと数センチ程の距離があり、僕はというと一度も跳んだことがない。川に落ちることすらなかった。

ただ跳べないだけなら痛くも痒くもないが、鬼ごっこになると川を飛び越えられないと話にならない。そんな僕は、橋の方まで走り続けていた。
 
 何故僕は川を跳び越えることができなかったのか。理由は単純明快で、怖いからだ。
怖気づく僕に友人は幅跳びの練習に付き合ってくれたが、川を前にすると足がすくんで動かなかった。

 「石橋を叩いて渡る」ということわざがあるが、あれは教訓ではなくただの僕への皮肉だ。川を飛び越えた友人と、跳びすらしなかった僕の違いは、目線がどこに向いていたかだと僕は考える。
彼らは常に向こう岸の土の壁を見据えていて、僕は足元の流れる川に潜む無数の瓦礫や石に夢中だった。

 そんな僕が捉えるのは、今でも足元ばかり。よく言えば慎重、悪く言えば臆病。
もちろん悪いことばかりではないが、自分がここまで言い訳に精通している人間だとは思ってもみなかった。

 ヒトは、自分を第三者、TPS視点で自分自身を客観的に眺めることができる唯一の動物らしい。
メタ認知」と呼ばれるそれは、古代から伝わる本能で、どうやら熊やら虎から身を護る為に発達していったらしい。

それが故に、人間は誰しも言いようのない不安を感じてしまう。他の動物ならば、本能のままに獲物を捕らえるので、自分を客観視することはまずない。

 そんな「メタ認知」の恐怖が行く手を遮る中、一歩踏み出した者が世間で言う「頑張っている人」なのかもしれない。それなら、応援されるのも納得ができる。自分が立ち入ることのできない道を、彼らは恐怖をもろともせず歩いてゆく。

 「人生は妥協の連続」
半分は間違っていて、もう半分は正しい。ただ自分でブレーキを踏んでいるだけなので、アクセルを踏めば誰でも前に進むことが出来る。最初から決めつけてしまっているのは、いつも自分自身だ。

 いつの日か、胸を張って「間違っている」と断言できたのならば、僕は生きていて良かったと実感できるだろう。
そんな未来の僕に永い言い訳を託しながら、今日も睡眠を貪るとしよう。僕は一体・・・

バイト中にガラス片で薬指を切り、流血した話

 連日の猛暑のせいか、胸焼けのような痛みが纏わりついている昨今。深呼吸をしても痛みは治まらず、埃やダニを掃うにも私が倒れるのが先だろう。皆さんは、いかがお過ごしですか?

 最近始めたスーパーの品出しバイト。いつものように自転車を走らせ、タイムカードを切り、荷台を動かすだけの簡単なバイトだ。退屈ではあるが、以前の飲食とは違い自分のペースを乱されないことについては、本当に気が楽だ。

 それは夕礼が終わり、飲料を棚に陳列していた時のことだった。社員が慌ただしく僕を呼び、裏へついてこいとのこと。この社員は顔がスケートの羽生結弦を目元を暗くしてサイコチックにした顔なので、「陰生」と呼ぶことにする。

 「ガラス片付けて来て」
陰生は僕にビニール袋とペーパータオルの束を渡し、そう言った。どうやらレジを過ぎた辺りでガラスが割れたらしい。品出しとは雑用係のようなもので、店内のポップの張り出し等、しばし関係のないこともこなさなければならない。

 嫌な予感はしていた。陰生は僕にペーパータオルを渡す時、確かに左手にボロ雑巾のように黒ずんだ軍手を一組持っていた。僕はてっきりそれを使い処理するのだと考えていたのだが、彼は「気をつけてね」と一言残し、走り去ってしまった。

 渋々現場へ急行する僕。酒かなにかの瓶が割れているのかと思いきや、破片はそこまで散らばってはいなかったが、何故か生臭い空気が漂っていて、倉庫の発砲スチロール置き場と同じ臭いがした。魚の臭いが、一番厄介なのだ。

 現場には、すでに二人が到着していた。品出し部門のチーフと、パートのおばちゃん。
チーフはジャンプのレジェンド葛西や今年のワールドカップ日本代表の監督、西野に似ていてイケメン。常に笑顔を浮かべる彼の裏には、休憩室で灯した吸い殻の炎が絶えないので「ヤニ西野」と呼ぶことにする。

 ヤニ西野は僕からペーパータオルを取り上げると、濡れた床を拭き始めた。どうやら生臭い原因はこのタイルに溢れた液体にあるようで、本当に便所掃除をさせられているかのよう。それにしてもビニール袋とペーパータオルだけでガラス片をどうやって片付けるのか、お手本を陰生に是非ご披露して頂きたいものだ。

 薬指の表面を切り裂き、腹を抉り侵入してくる何か。
ヤニ西野が「そんなに強く拭かなくても---」と呟くも、時すでに遅し。
どうやらペーパータオルをガラス片が貫通し、僕の指を突き刺したようだ。零れ滴る血と共に、背中から冷や汗が滝のように溢れ出てくる。思ったより深く侵入されていたようで、出血の量も人生に今までにない位多量だった。

 「もういいよ、手洗って絆創膏貼って」
ヤニ葛西は僕にそう告げ、床に滴る血を拭き取る。
バックヤードに撤収しようと顔を上げた僕の目に、おばちゃんが映り込む。・・・え?
おばちゃんは、箒と塵取りを持っていた。いやいや、おかしいだろと。冷静に考えれば僕にも非はあるのだが、どう考えても素手でガラスを処理するヤニ葛西はおかしいし、それを見越していた陰生もおかしい。おばちゃんも、まず箒で大きなガラスを取り除いてから、床を拭く作業に入らせるべきだ。そこは例えチーフが相手でも、止めるべきだろう、と。

 完全に僕は邪魔者で、流した血は無駄になった訳だが、仕方がないのでバックヤードのトイレへ退散することにした。
指を洗い、トイレのペーパータオルとセロテープで即席絆創膏を作っていると、ヤニ葛西が絆創膏を一枚持って現れた。どうやら売り場から取ってきたらしい。
心配の言葉を投げかけ、絆創膏を剥がすヤニ葛西。
強めに薬指を締め付けるようにして、業務に戻る僕。

 少し話が脱線するが、リストカットする人の気持ちが少しわかったかもしれない。ガラス片が侵入してきた瞬間は痛みがなく、ゼリーや海老を歯で押し潰す感覚の逆というか、非日常の違和感がそこにはあった。快感とは程遠いものだったが、非日常が味わえたのは確かだった。

 後から来るタイプの激痛に、思わず今にも泣きだしそうな顔をする僕。ポテチを陳列する僕に、ねぎらいの声はおろか目を向ける者は誰一人としていなかった。

 バックヤードに戻る途中、事の発端である陰生が話しかけてきた。どうやらヤニ葛西から僕が指を切ったことを聞いたらしい。
「大丈夫?だからあれほど言ったのに

ぶっ殺すぞ
僕の脳では反射的にその一言が選出されたが、声に出せる訳がない。口にできていたら、どんなに楽なことか。
そんな僕は少し頷いた後、逃げるように荷台と共にバックヤードへ駆け込んだ。

 あの生臭さが染みついた指先を洗い、お目当ての陳列棚を探しているとそこにはヤニ葛西が。
「大丈夫?無理しないでいいからね、ごめんね」
いつものヤニで固めた笑顔と共に、僕を励ますヤニ葛西。
ここであぁ、やっぱり人は顔が9割なのかもしれないな、と思った。

 以前から陰生には悪い印象しかなかった。因みに彼もなかなかのスモーカーである。上司の前で意気揚々と僕に仕事を教えている姿をアピールし、教育上手をひけらかす陰生。
口調も普段は「いや、それはありえないでしょ」「馬鹿か?」「遅いぞどうした?」と高圧的なのに対し、その場限りで標準語に戻る。DV夫ってこんな感じなのか?と考えたりもしていた。

 傷の具合からは想像できない痛さに苛まれ、今にも泣き出しそうな顔を浮かべながら、顔と性格の関係性について考えていた。
ヤニ葛西の笑顔は煙で膨れた頬で作られてはいるが、笑顔に変わりはない。彼は人に頼み事をする際に、必ず最後にニコッと微笑む。あぁ、人の上に立つ職業には、なんだかんだ人格が伴わないとやっていけないんだな、と考えた。何故なら、陰生は平で、ヤニ葛西はチーフだからだ。

 ところで、どのバイトでも基本店長が口うるさく細かいのは仕事柄仕方ないのか、それとも偶然なのか。エリアマネージャー等、細かく指摘する役職があると思うと、世の中はとても面倒で厄介な仕事で溢れているのか、と考えてしまう。

 最近、僕は自分のことをトム・クルーズだと思い込むようにしている。傍から見ればただのヤバイ奴だが、実際に効果があるのだから驚く。なにがあっても
「トムならこんなことで逃げ出すか?」
「俺はトップガンのトムだ。超絶イケメンだから俺のがカッコイイし強い」
「でも俺はトムだから楽勝さ」
と、ポジティブの化身と化すことができる。
自己肯定感やらメンタリストやら依存症やらの本を読んで
実践したどのことよりも遥かに楽で、効果がすぐに出た。

 内面的な効果だけではない。
何故か陽キャの女子にまつ毛が長くて可愛いと気にいられ、ユニクロのチュッパチャップスTシャツを褒められ、LINEの交換を誘われた。クソ陰キャの僕でも、女友達位は作れるようになったのだ!

 別にトム・クルーズでなくとも、各々の心に寄り添うヒーローは自分自身だ、と思い込めば、少しはポジティブになることが出来るかもしれない。ただし、殺されたジョン・レノンのように自分が本物だと錯覚してしまうケースもあるので、ほどほどにした方が良いのかもしれない。

 僕も将来は子供のみならず、誰かの心に寄り添い、思い込まれるような、そんなヒーローのような人間に成長したいと胸に刻んだ今日この頃。アメリカのヒーロー文化にもう少し深く飛び込んでみたら面白そうだな、と夢見る僕でした。

優しい嘘

 僕は嘘つきだ。弟からは、嘘をつくのが上手いと褒められるが、僕は顔に出てしまうタイプなので、嘘をつく時には「話の筋に合わせる」ことを意識している。
例え不利な状況になっても、一度受け入れ流れに乗り、話のペースを乱さず、相手を信用させる。

 僕は今日もまた一つ、嘘をついた。
弟は、現在ゲーム機器の使用を母によって禁止されている。
理由は「勉強をしないから」だそうだ。
正直、僕の過去の経験からしてもゲームを取り上げたところで勉強時間は延びないが、母は聞く耳を持たない。

 弟は、自分で新たにゲーム機を購入し、自室で母に怯えながらマリオカート7と太鼓の達人を貪る毎日。学校には真面目に毎日通っているので、僕の時とは幾分かマシなのだが、その分母の見当違いな期待の餌食になっているのかもしれない。

 そんな申し訳なさもあってか、僕は度々嘘で弟を庇っている。ゲーム機を僕が弟に貸していると問い詰められた時は、弟が勝手に持って行ったことにしてDSを僕が回収&リリース。そんなことが何度か続き、その都度僕は弟を庇った。時には、僕が全面的に悪者になることもあった。

 正直、全く事実無根のことで悪者にしたてあげられるのは、たまったもんじゃない。僕のメンタルもそう丈夫ではないし、疲れていた。そんなまた嘘をついたある日のこと。
弟は僕に
「お前にはいつも申し訳ないし」
と、渋々現実を受け入れ、また新たにDSを購入しようか検討していることを伝えた。

 寝落ちでどうせバレてキリがないからやめとけ、と納得させるも、僕は少し嬉しかった。
少なからず、弟が「申し訳ない」という罪悪感を抱いていたことが。

 僕が弟を庇うのは、根本的な解決ではなく、一時的な気休め程度にしかならないが、それでも妥協するしかないのが現状だ。

 僕はその日、弟と夕飯のマックを食べた帰り道、自転車で並走しながら話していた。
「俺、そろそろ家出たいわ。やってらんねえよな」
「じゃあ俺が家出る時に、一緒に出ようよ。じゃないとこええ」
「あと3.4年はかかるじゃん。正直きついわ。」
「・・・」
「じゃあ、お前と俺がろくでもなくなったら、一緒に住もう。お前は大学にでも行ったつもりで、俺と芸人でもやろうぜ。」
「一緒に住むのはいいけど、芸人はやだよ」
「じゃあバンドでもやるか?お前ピアノやってんじゃん」
「なら芸人のがマシだよ」

 正直、一秒でも早くこの家を出たいと思っているが、弟が本当に心配だ。弟が親を殺す可能性も考えられなくはないし、その逆もありうる。そこまで過剰にならなくとも、母のストレスの矛先が弟に集中するのは目に見えている。

 最近、自分がどうすればいいのかがわからない。
自分勝手に生きてもいいが、弟とは仲が良いので、見捨てたくはない。一緒に住むにしても、弟がバイトできる年齢に達するまでは、少なくともあと三年はかかる。僕も収入が十分にある訳ではない。

 人生は、妥協の連続。
それにしても妥協点が、あまりにも低すぎるよ・・・

心が折れそうな時は、映画「きっと、うまくいく」を観ましょう。

 最近の僕の心は、曇り空だった。逃げ続けていたツケが、ついに回ってきてしまったのだ。

 すしざんまいでまぐろざんまいを食べながらも、僕は涙が止まらなかった。トイレの個室に退散するや否や、理性のタガが外れ、号泣してしまった。
惨めな僕を、少しでも慰めようと気を使い、すしざんまいへ連れて行ってくれた母。。。やるせない気持ちは全て自分のせいなので、本当に消えてしまおうかと考えていた。

 そんな僕が、電子ドラッグにすがる思いで視聴したのが映画「きっと、うまくいく」
いかにもカルトチックなタイトルなので、前々から気になりつつも避けていたが、実際は素晴らしい内容でした。映画で泣いたことの無かった僕が、5、6回は号泣する程に。
そもそも、原題が「3idiots」(3バカ)なので、視聴する前からタイトル切りしてしまった人は多いだろう。翻訳に疑問を抱いた。

 本作のキーワード「All izz well」は、邦題だと「うまくいく」と訳されているが、これだと未来を信じろといったニュアンスになってしまう。
本来のメッセージとしては、どちらかと言うと現状肯定のニュアンスが強く、現状の自分を納得させる為に使われている。
この訳に違和感を感じたのは私だけではないようで、少し調べてみると、「これでいいのだ」が一番しっくりきた。アナ雪の「ありのままの〜」も近いかもしれない。

  正直、本当に面白い映画なので、内容になるべく差し支えのないように紹介しようと思う。0から見た方が面白いからね。
この映画の1番の魅力は、「生きているだけで100点」だと実感出来る所。本作はインド映画ということもあってか、メッセージ性に強い説得力がある。

 主人公のランチョーら3バカは、ICEことインドNo1の工科大学生。毎年40万人から選び抜かれた200人が通り抜ける狭き門であるが故に、入学してからも試験に追われ続ける学生達。酒や祈りに浸る中、ランチョーは胸に手を当て「All izz well」と唱える。
彼曰く、人の心はとても臆病だ。だから、麻痺させているとのこと。
ルームメイトは馬鹿にし、「それで困難が解決するのか?」と問うも、ランチョーは
「困難を無視出来る」「将来は、誰にもわからない」とのこと。

 本作のメッセージには、妙な説得力がある。流石仏教の聖地インド。他にもインドの教育システムであったり、学生の自殺にも切り込んでいて、見所は数え切れない。

 僕が一番心を動かされたのが、ランチョーの圧力で自殺するのは殺人だ、という考え。
僕は、生きているだけで100点で、それからの加点方式という考えで生きてきたが、現実はそう優しいものではない。そんな中、ランチョーだけが僕の心の友として、寄り添ってくれる。
映画がここまで人の心を動かすことが出来るのか、と映画の可能性を感じた。間違いなく生涯の10本に入るし、一生の友が現れた。

 インド映画には必須のダンスシーンも、絶妙なタイミングで踊りだし、歌も踊りも素晴らしい。
時系列が前後するタイプの映画なのだが、差し替え方が上手すぎる。脚本が練られていて本当に素晴らしい。

 人間、誰しも生きていると必ず壁に当たるだろう。そんな時は、「きっと、うまくいく」を視聴してみて欲しい。ランチョーと共に、All izz wellと唱えれば、今を生きることが出来るし、明日を生きることだって出来る。
自殺対策にもってこいの映画だと思う。本当に素晴らしい映画なので、是非落ち込んだ時には視聴してみて欲しい。今なら、Amazonプライムで無料で視聴できます。

心の靄

いつからだろう 心に靄が張り詰めたのは

目を閉じれば、雨音すら聞こえてくる

明けない夜はないが、晴れない靄はない

横になれば、僕を取り巻くピアノの音色

丑三つ時になると鳴り響く、僕のアラーム

僕を取り巻くその音色は、確かに共鳴している

取り憑かれた僕は、ただ嗜むばかりで

 
それは引き寄せられた磁石のよう
 
エクソシストでもない限り、切り離せないだろう
 
今も変わらず鳴り響くその音色は
 
僕が奏でているだけかもしれない
 
鳥のさえずりと共に、眠りにつく
 
鳩と迎える朝は、心地が良い
 
君の横顔が見れないのは、残念だけどね